2011年12月18日日曜日

その写真といっしょに頂いた文章を紹介すると

一葉の写真が伝わっている
慶応元年2月中旬から3月18日までの間に、長崎へ集結をかけられた各藩の勤皇党は、西郷南洲翁及び勝海舟と共に、世界の情勢に明るい、オランダ人宣教師フルベッキ博士を訪問した。
大隈重信・副島種臣ら門下生と共に、日本の統一をどうしたら良いか、王政復古は、どうなってゆくのかをフルベッキ博士を交え相互して議論し合った。
この写真は、写真術の祖、長崎大村出身の写真家、上野彦馬の写真スタディオでフルベッキ博士の子どもも交え、和やかな雰囲気で記念撮影されたものである。
明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載したが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介された。
このため現在まで分からなかったのである。
また、この写真は、宗教記録として、フルベッキ博士が所持し、絶対に手放さなかったものを、戸川残花の強い要望により借り受けたものである。


私にとって信じられない貴重な写真
私がこの写真を見てまず感じたことは、この写真は本物だろうか、信じられないと言う気持ちが第一印象でした。
まず、西郷隆盛の写真は現存していないと聞いていたし、東京上野の「西郷さんの銅像」もイメージだけで造られたと聞いており、西郷隆盛の奥さんが銅像を見て、「これはうちの主人とは少し違う」と述べられたことを何かの本で読んだことがあります。
その実物の写真が見られたということは私にとって感動であり驚きでした。正直、今まで「西郷さんの銅像」のイメージが強く、この写真を見てイメージが違うなと言う印象を持ちました。
そして、私がこれまで歴史に関する本を読んでいて、明治天皇をはじめ、これほど明治維新に貢献したスターたちが一同に会し、意見交換したと言うような場面 に一度も出会ったことはなく、したがって、本当にこれだけの有名な人達が一同に会したことがあるのだろうかという疑問も浮かびました。
しかし、もし本当であるとするならものすごく貴重で、信じられない、すばらしい写真であると思います。
まさに、作家、司馬遼太郎の世界に入りこんだような気持ちになります。
「竜馬が行く」、「花神」、「世に棲む日々」、「翔ぶが如く」「坂の上の雲」など司馬遼太郎の小説に出てくる、勝海舟と西郷隆盛の江戸城明渡し交渉、江藤 新平による佐賀の乱に対する大久保利通との戦い、処刑。大久保利通、川路利良と西郷隆盛の戦いとなった西南戦争。坂本竜馬、中岡慎太郎などを仲介とした、 西郷隆盛、大久保利通の薩摩と桂小五郎等の長州による薩長連合。百姓医者から官軍のトップとなっていった大村益次郎。日露戦争の海軍の基礎を作った西郷従 道。坂本竜馬が作った海援隊に所属し、後に外務大臣となった陸奥宗光など、明治維新の基礎を創ったすばらしいスターばかりで、私の頭の中を当時の歴史が駆 け巡ります。
フルベッキ博士による世界情勢を聞く会がこれだけの人を集めて開催され、又共通認識をもったとすると、当時のヨーロッパ諸国によるアジア侵略の現状(日 本以外はほとんど植民地)を全員が十分認識しており、日本も他のアジア諸国のように侵略されてはいけないと認識していたに違いありません。
江戸城無血開城と言うこともそうした認識のもとで行われたということであれば、単に勝と西郷が個人の腹だけをかけたのではなく、そうした地盤も同時に出来上がっていたのだということも理解できます。
逆にこうした共通認識がなかったならば江戸から明治へのスムースな改革ということは行われなかった可能性も考えられます。
それにしてもロマンをかきたてられる一枚の写真である。
この写真の真贋の程は私自身よくわかりませんが、本物だと信じたい気持ちでいっぱいです。
皆さんとともにロマンを分かち合いたく紹介いたします。



ある方から13年8月一枚の写真のコピーを頂きました。何の写真だかわかりますでしょうか?
平成15年1月10日追加分

「ちょっと興味のある話」
(上記)で明治天皇と西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬をはじめとする明治維新に貢献した人々の集合写真を紹介した。
その後、平成14年5月、明治天皇の孫に当たられる中丸薫さん(国際政治評論家)が「真実のともし火を消してはならない」(サンマーク出版)と言う本を出版され、同じ写真が紹介された。
私も本心、あの写真は本物なのか、偽者なのか半信半疑でいたが、これで私の心の中では、かなり信憑性が高まった。
明治天皇には大正天皇のほかに、千種の典待に生ませた第1子があった。それが中丸薫の父である堀川辰吉郎だそうである。
なぜ長男の堀川が皇位を継承できなかったかは、大正天皇の母である柳原の局の背後に居たのが大隈重信であり、千種の局の背後に居たのが岩倉具視であって、 当事の政治状況は、大隈派と組んで国政を進めなければ、国が成り立たない状況に立たされており、明治天皇の判断で大正天皇が皇位を継承され、堀川は頭山満 に預けられたのだそうである。

「謎多き明治天皇」―明治天皇すり替え説―
孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられたというのである。(詳しくは中丸薫さんの本を買って見ていただきたい)
天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。
しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというのである。
孝明天皇は中山慶子の間に睦仁親王をもうけたが、睦仁親王は女官たちに囲まれて育ち神経がこまやかで気が弱かったとされている。
そして孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。
また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は 暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。
また、「中山忠能日記」によれば、1867年7月8日「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」とある。16歳にもなって女官達と遊ぶとは、あまりにも子 ども過ぎて知能も遅れていたのではないか。日記には、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさ せたことなどの不審な記述が載っている。
この仏像はたぶんに睦仁の亡骸ではないかと想像できる。睦仁は岩倉具視らによって買収された侍医の手で暗殺されたのではないだろうかと中丸薫さんは推測されている。
こうした一連の事情を考慮すると、大室寅之祐(明治天皇)は即位されるまでは比較的自由な身でありまた、長州に居たことで長州藩、薩摩藩の武士とも交流があったことが考えられ、大室寅之祐と明治維新に貢献した人達が一緒に写真に収まることが出来たのか理解できる気がする。
又政界の一部の圧迫を受けてこの写真の本当のことが発表されなかった理由も理解できる。(この写真は雑誌「太陽」に佐賀藩の学生達として紹介された)

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